松 竹 蒲 田 キ ネ マ(番外)
六郷地域とは少し離れますがJR蒲田駅は、私たちの最寄り駅です、当駅東口前付近には、かつて、松竹キネマ蒲田撮影所があり、大正九年(1920)から、神奈川県大船に移る昭和十一年(1936)までの17年の間、ここから幾多の名作が世に送り出され、我が国の映画文化の発展に大きく寄与し蒲田は「キネマの都」として全国にその名を知られるようになりました。所在地 
大田区蒲田五丁目
三十六番付近
松竹キネマ蒲田撮影所の正門前を写したもの。手前を逆川(さかさがわ)が流れていて松竹橋と呼ばれる橋が架かっていた。正面の大きな建物は第一ステージと呼ばれた所と思われる。「蒲田画報」第19号(大正十四年一月)↓ 下は、蒲田池と呼ばれた所内の池をバックにした集合写真。大正十五年(1926)五月の「蒲田週報」によれば、撮影所の総人員は600余名といわれます。当時の有名女優の栗島すみ子、田中絹代らが写っているそうです。詳しくは「写された大田区」大田区立郷土博物館発行を参照下さい。↓
アプリコ地下一階ロビーにある、松竹キネマ蒲田撮影所のジオラマ、17年の間に正門前や、建物に多少変化があるようですが当時の風景が良くわかります。撮影所には蒲田池(左隅)という池もあったようです。↓ 左のジオラマとほぼ近いアングルの絵。松竹キネマ蒲田撮影所俯瞰之図(月村吉治「蒲田撮影所とその附近」より)↓
現在のキネマ通り映画館はすでになく、ボーリング場・ゲームセンター・ホテル・居酒屋が立ち並ぶ。映画館や、映画産業も時代と共にそのかたちを変えていくのでしょう。↓ 下は、昭和三十年(1955)当時の蒲田映画街(キネマ通り)日本映画史上の最盛期の時代でした。昭和三十三年には、映画観客数で11億2745万人余。国民1人当たり年間12.3回もみたことになります。 「写された大田区」より。↓
松竹蒲田撮影所が日本映画の発展に大きく貢献した割に当地には、それを記念するものがあまりありません。このキネマ通りに小さな記念館くらい出来てもいいと思いますが。右のアスレチッタ内のエレベータ脇にある蒲田松竹撮影所跡を記念する木柱。↓ 現在はボーリング場・卓球場・ゲームセンター等があるキネマ通りのアスレチッタ。↓
ここに置かれた橋は、当時撮影所の正門前を流れていた逆川(さかさがわ)に架かっていた「松竹橋」を模したもので、撮影所が当地を去った五十年後の昭和六十一年(1986)に公開された映画「キネマの天地」の撮影につかわれました。アロマスクエア前の庭にあります。大正九年二月(左)とあります。↓ 下は実物の松竹橋の「親柱」です。これは、鎌倉在住の方より寄贈されたもので、戦中戦後の混乱期を経て、もはや現存しないものとされていたが、蒲田東口地区町づくり協議会が懸け橋となって、70年ぶりに当地への里帰りが実現しました。アプリコの一階ロビー連絡通路にあります。↓
アロマスクエア(左)とアロマプラザ・アプリコ(右)、松竹橋のレプリカはアロマスクエア前の庭にあります。又実物の松竹橋親柱は、アロマプラザとアプリコの一階ロビー連絡通路にあります。又地下一階ロビーには撮影所全体のジオラマ(模型)があります。蒲田駅東口 蒲田5−36↓ ←大船蒲田撮影所閉鎖(毎日)昭和十一年(1936)に蒲田撮影所から大船撮影所に移り「東京物語」や「男はつらいよ」シリーズなど数々の名作を残した松竹大船撮影所も2000年夏に、 64年の歴史に幕を下ろしました。松竹大船撮影所も松竹蒲田撮影所同様に日本映画史上に大きな足跡を残したと言えるでしょう。左の写真は大船撮影所閉鎖イベントに参加した倍賞千恵子・山田監督の両氏。なおスタジオは新木場に移設され21世紀と共に新たな映画の歴史を刻むこととなるでしょう。